東日本大震災の駿台学内における対応

震災当日には駿台学内においても、生徒・学生をはじめ一般の来校者も含め、あわせて2000名以上の方々が帰宅困難となり、
各校舎に留まることとなりました。校舎における対応と、エピソードの一例をご紹介いたします。

駿台は学内において、震災直後より以下のような対応を行いました。

各校舎で速やかに避難誘導を行い、帰宅が困難となった生徒・学生を校内に待機させ、飲料水や非常食など備蓄品・校舎内自販機の商品を支給して教室(自習室)等を開放しました。

一般の帰宅困難者の方々にも校舎(教室)を開放し備蓄品を支給しました。

校舎内に避難されている方の名簿を作成し、問い合わせに対応しました。また、携帯電話が繋がりにくい状態が続いたため、固定電話を使いご家族の方に連絡し、お迎えがあった場合や交通機関復旧によって退館される際には、名簿で確認の上、ご帰宅いただきました。

各校舎において被害状況の把握に努めました。定期的に巡回を行い、破損状況やエレベーター内の閉じ込めが無いことなどを確認しました。

受験等で東北地方やその周辺に行った生徒・学生がいるかどうかの情報収集に努め、安否を確認しました。

テレビ・ラジオ放送を校舎内の方々に提供し、また、鉄道の運行状況などを随時館内放送にて連絡しました。震災翌日以降に実施予定の国公立大後期入学試験の情報をインターネットより収集し提供しました。

仙台校で食糧など支援物資に不足が生じたため、駿台西日本の各校舎(名古屋・関西・福岡)において、支援物資を集約し送付することで、分配・支給することができました。 さらに、首都圏各校舎からも、震災の対応がある程度落ち着いた後に、支援物資を送付することができました。

駿台学内の震災時のエピソードをご紹介します。

首都圏各校舎では

入学説明会で、遠方から来られた親子がいらっしゃいました。一度外へ出られましたが、帰宅困難者を受け入れている他の建物では、ホールの床に座っているだけで寒そうな様子だったこと、コーヒーショップでは物が散乱して大変な状況であるのを見て戻って来られ、「駿台にいるのが何より安心だと分かった。家にいるよりもここにいて良かった。」と仰っていただきました。  (お茶の水2号館)

一般の方から「校舎で休ませてもらえないか」と相談を受けました。名古屋から上京していた若い女性とそのお母様で、お腹には赤ちゃんがいるとのことでした。地震があり、電車も動かず、ホテルなどはどこも満員で行く当てがないとのことでしたので、とにかく安静にしていただけるよう、2床ある医務室のベッドを快く提供いたしました。地震からしばらくした後に丁寧にお礼の手紙を頂戴いたしました。  (お茶の水2号館)

千葉駅まで来たが電車が動かず「駿台で待たせてください」と来校した生徒・保護者が数名いらっしゃいました。また、道路が寸断され、どうしても迎えに行けないという保護者からの電話を受け、より気持ちが引き締まりました。地震があったにも関わらず、早く報告したかったからと大学の合格を伝えに来てくれた生徒がいたり、都内から帰ってきた生徒の中には、職員・スタッフの顔をみて安心したのか泣き出してしまった方もいました。  (千葉校)

あざみ野校の近隣では、揺れのあと停電になり、電話も全くつながらない状況となりました。日没後辺りが真っ暗になってからは、数本の懐中電灯とノートパソコンの画面をわずかな明かりとして使用していました。窓際に張り付いて学習を続けていた生徒が印象に残っています。生徒を迎えに来られた保護者が懐中電灯を置いていってくださり、本当にありがたく感じました。  (あざみ野校)

1回目の地震の後、生徒は全員1階に避難させました。その後2回目の揺れがあった後は、一時避難場所であるお隣の市谷亀岡八幡宮に避難しました。余震が続き、立っているのが疲れてきた生徒もいたので、校舎内から椅子を持ち出し座らせるようにしました。同じように近隣から避難されて来ている方々にも声を掛け、足の不自由な方、気分が悪い方などに座っていただきました。 夕方には様子を見て校舎内に戻り、100名以上の帰宅困難な生徒、来校者が宿泊できるよう、教室にダンボールや緩衝材を敷き仮眠室をつくりました。中には、駿台予備学校入学説明会にお孫さんと一緒に来校されていた80歳のお祖母様もいましたので、医務室で休んでいただきました。  (市谷校舎)

JRや私鉄の駅のシャッターが下り、近隣の予備校も16時ごろには閉館していました。高3校内生から「駿台生ではない友人が帰れなくて困っているので、迎えが来るまで一緒に校舎にいてもいいですか」という申し出を受け、1階のホールで椅子と毛布を使ってもらい、一緒に待機してもらいました。  (柏校)

町田校への主要交通機関の駅が早々にシャッターを閉めたため、当日入学相談などで来校いただいていた一般生含め、校舎内に残っている生徒の交通経路を調査、同じ地域に住む学生をグループ分けして営業車に乗せ自宅に送り届けたり、保護者が迎えに来られた学生に同グループの近隣の生徒を同乗させてもらえるようお願いしました。結果、震災の夜は、全ての生徒が保護者のもとに戻ることができました。  (町田校)

翌日に国公立大学の後期試験が控えながらも、帰宅できない生徒が多くいました。試験開始時間を基に起床時間を個々に申告してもらい、1階から近い教室を勉強専用自習室と仮眠部屋として開放いたしました。仮眠する生徒には非常時用の防寒シートを配付して、風邪を引かせないように配慮しました。受験に行く生徒には校舎内の自動販売機で購入した食料を弁当代わりに持たせ、不安な状況に負けずに頑張ってくるようにと、一人ひとりに声を掛けて送り出しました。  (お茶の水3号館)

関西の生徒が一橋大<後期>を受験のために上京し、下見をしている最中に震災にあいました。都内で予約していたホテルに戻れず、慣れない土地で頼る宛てもなく、途方にくれて在籍校舎の担任に連絡をいれ、近隣の立川校へ行くようアドバイスを受けていました。立川校では大阪南校から連絡を受けて、すぐに近くのカプセルホテルを1室確保。生徒は立川校で勉強したあと、ホテルに向かいました。大学へ進学後には立川校まで、わざわざお礼に立ち寄ってくれました。 (立川校)

仙台校では

公共機関の避難所への誘導を行うとともに、指定寮の状況確認も行い、被害の少ないところに分散して生徒を受け入れてもらいました。 余震の際の避難誘導なども考え、各寮では、布団を食堂に集めて、みんなで一緒に数日間寝泊りしていた状況でした。 地震発生後しばらくの間は、クラス担任が毎日交代で寮を訪問し、生徒の在寮・退寮状況を確認するとともに、生徒と話をして、励ますなどのケアに努めました。4月初旬に全生徒が退寮できた日まで、各寮には毎日連絡して状況を確認しました。

仙台校が駅に近く、交通機関の復旧作業を急ぐためか、翌日の12日深夜には校舎の電気が復旧しました。ただし、仙台駅周辺の一部が復旧しただけで、校舎から徒歩数分の女子寮で電気が点いたのは4・5日後。校舎に電気が点いて以降、「携帯電話を充電させてほしい」「テレビを見させてほしい」「トイレを貸してほしい」と一般の人からの申し出が多数あり、その要望に応え、1階ホールを開放しました。 また、職員・スタッフの自宅、指定寮から電気炊飯器・お米を校舎に集めて、炊き出し(おにぎり作り)を行いました。

その日の食糧をどうやって確保するのか、という状況が1週間以上続きました。ほとんどの店は閉まったまま。開いている店舗があっても、数時間並んで少しの食糧が手に入るという状況でした。毎朝の朝礼・打合せ終了後に、数人で近隣を探索して、コンビニなどが開いていれば並んで購入し、商店や居酒屋・ホテルなどで炊き出しが行われていれば、その食糧をもらって昼食にしていました。また、職員・スタッフのみんなで自宅の食糧を持ちよったり、学生を迎えにきた保護者の方が食糧やお菓子を持ってきてくれたり、ドリンクを無償提供しに来てくれた自販機業者があったり、多くの人の支援に支えられて過ごすことができました。

電気が復旧してパソコン・学内メールも使えるようになり、しばらくして一般電話の回線も一部使えるようになったため、13日から職員全員で手分けして、生徒の所在(現在はどこにいるのか)と安否の確認作業を開始しました。国公立大前期の合格発表も済んでいる時期のため、既に入試を終えて自宅に帰っている生徒、明日の後期試験受験のために各地に行って足止めされている生徒など様々で、数日間も連絡が取れない生徒もいましたが、幸い全員が無事でした。早速、出身高校に連絡、先生方からは「どのような状況か心配していたのでほっとしました。」とのお言葉をいただきました。

以上 一部抜粋

 

駿台では今後も引き続き、生徒および来校される方々の安全を第一に、災害時のための備えと対応に力を入れるとともに、復興に向けての支援に取り組んでまいります。